小説、映画、絵手紙、都々逸
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カテゴリ:村上春樹( 18 )

「騎士団長殺し」第1部,第2部 村上春樹〔著〕

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内容紹介

『1Q84』から7年――、
待ちかねた書き下ろし本格長編
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。


 この本を読み終らないうちは他の事が手につかないくらいの面白さでした。「1Q84」、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」、「女のいない男たち」と比較にならないほど引き込まれました。プロローグからの64章を1章だけ読んで本を閉じることは一度もありませんでした。


 3月半ばの日曜の午後、妻から、もう一緒には暮らすことはできない、と告げられた「私」はその日のうちに車で家を出ます。都内の道路をあてもなく走った後、向かったのは北の方角。東北の町を彷徨いながら、妻との出逢いや、その妻が思い出させる幼い頃亡くなった妹との記憶が綴られます。主人公の一人称が「私」というのも初めての気がするし、いつもの村上春樹とはどこか違う雰囲気です。期待に胸が高鳴りました。


 5月に入って「私」が、小田原郊外の山頂の“雨田具彦”の家で新しい生活を始めるあたりからは、すっかりいつもの村上さんの世界になります。登場人物一人一人に既視感が湧いてきます。“羊男”のような象徴的人物も現れます。正直、ワクワク3割にガッカリ7割。けれども村上さんは、ここから最後の最後まで面白さを加速してみせます。


 読み終わっても謎は一つも解かれず、すべては読者に委ねられるのはいつもと一緒。私の好みの

に近いものを感じました。主人公が異界の洞窟を進んで行くところは、村上さんの真骨頂。約5章を費やし“メタファー通路”を進む描写には並外れた作者の文章力を感じました。


 私が一番心に残ったのは“免色渉”の存在。孤高で魅力的な”免色さん”の中には“白いスバル・フォレスターの男”が象徴するものが棲んでいたのでしょう。あの時、“まりえ”が居たのはギリギリの場所。彼女の前に立った室内履きの男は、邪悪な“免色さん”だったように思います。絵の作者“雨田具彦”が最期に救いを得たのも印象的でした。


 絵画が重要な題材になっていること、そして谷を挟んだ三軒の家という構図が物語の独自の魅力を高めます。音楽、車、食べ物、登場人物達の服装、そういうきめ細やかな描写を楽しめるのもいつも通り。村上ブランドのお祭りに楽しく乗れたことも含めて最高に面白い本でした。


by cuckoo2006 | 2017-03-15 20:22 | 村上春樹 | Trackback | Comments(0)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹[著]

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内容(「BOOK」データベースより)
良いニュースと悪いニュースがある。多崎つくるにとって駅をつくることは、心を世界につなぎとめておくための営みだった。あるポイントまでは…。


 


1Q84」よりもずっと小さな世界のお話。私は、こちらの方が面白かったし好みでした。

 多崎つくるは、大学2年生のある時期、ほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。その原因となったのは、彼が受けた親友達からの拒絶だった。つくるは、その拒絶の訳が全く解らず、またそれを誰に尋ねることも出来なかった、、、、

 歳月は流れ、36歳になったつくるは、鉄道会社で駅を設計する仕事に就いている。鉄道駅に魅了され続けてきたつくるにとって、それは天職と呼べるものだった。そんな時、つくるは初めて心を開き合える女性沙羅に出会う。沙羅は、つくるが過去に受けた拒絶の理由を確かめるように勧める。つくるは、16年の時を経て、当時の仲間を訪ねる旅に出る。生まれ故郷の名古屋へ、そして、フィンランドへ、、、、

 つくるの身に起ったことが、早い段階で読者に説明され、その後も、村上作品にしては驚くほど具体的に事が運んでいきます。つくるの受けた仲間からの突然の拒絶も、青春時代を背景とした普遍的とも言える現実的なもの。村上作品独特の、象徴的に何かを暗示させるものは登場しません。つくるが仲間に拒絶された真相は、あっさりと解明されます。

 主人公の日常が丁寧に描かれるのはいつもの通り。歯磨き、洗濯、水泳など、浄化作用のあるような描写は、村上作品で、私が大好きなところです。それから、つくるが東京の大学で親しくなる灰田との会話のシーンが良かった。作者独特の観念的な会話が、解りやすい言葉で紡がれます。心地良く耳を澄ませました。この灰田青年が、一番村上カラーのある登場人物でした。

それに対し、今を生きている仲間達とのやり取りは、あくまでも現実的です。つくるが仲間の一人を無意識に昔と同じように、“お前”と呼びかけるところは胸に沁みます。

  ラストは、希望と不安が入り交じった明日が予感されます。謎が謎のまま置き去りにされるのは、いつもの通りですが、抽象的な難解さはありません。この感じわかるなあ!とつくるの感覚に何べんもフィットしたこと。これがこの本への私の一番の感想になりました。

村上春樹を初めて読む方にもぜひお薦めです。


★次回は、小川洋子の「ことり」です。

by cuckoo2006 | 2013-05-21 19:23 | 村上春樹 | Trackback | Comments(2)

「レキシントンの幽霊」村上春樹[著]

a0163466_1761953.jpg古い屋敷で留守番をする「僕」がある夜見た、いや見なかったものは何だったのか?椎の木の根元から突然現われた緑色の獣のかわいそうな運命。「氷男」と結婚した女は、なぜ南極などへ行こうとしたのか…。次々に繰り広げられる不思議な世界。楽しく、そして底無しの怖さを秘めた七つの短編を収録。(文庫本裏表紙より)

 七つの短編集は、バラエティに富んでいます。最初の「レキシントンの幽霊」と三番目の「沈黙」は、語り手=作家=村上春樹、と読者に思わせて進む、私小説のようなお話。村上作品独特の現実離れした世界は展開しません。村上氏に拒絶反応のある読者にも馴染みやすいかも知れません。

 「レキシントンの幽霊」は、「僕」がマサチューセッツ州ケンブリッジに滞在中、一人の建築家と知り合いになり、彼の古いジャズ・レコードのコレクションを通じ交流が始まる。やがて、建築家の住む広い屋敷の数日間の留守番を頼まれた「僕」は、夜半過ぎに階下から聞こえるパーティの華やかなざわめきと音楽で目を覚ます、、、、

 いつものことながら、耳を澄ませたお話が沁み込んでくる感覚です。建築家の深い孤独や喪失感が語られるなか、非常に共感したことがありました。それは、彼が父を失った時、またその父が妻(彼の母)を失くした時に、『時間が腐って溶けてなくなってしまうまで』、『地中に埋められた石みたいに』こんこんと眠り続けた、という描写。これは非常に良く解った。一緒にして悪いけれど、私も昔からヤなことがあると、どうしてこんなに眠ることができるのか、と自分でも呆れるほど眠り続ける。いつも寝つきが悪いのに、何かの魔法にかかったように幾らでも幾らでも眠ることができる。私の場合は、「脳」が現実を逃避していると分析してますが。こんこんと深く眠り続ける『予備的な死者』としての孤独、と村上氏は表現しています。

 『ある種のものごとは、別のかたちをとるんだ。それは別のかたちをとらずにはいられないんだ』、物語からの文章ですが、これが何を意味するのか、高校の国語の教科書の問題になったそうです。こういう謎解きのような一節が、村上作品のどの話にも登場します。何となく解かる場合もあるし、全くお手上げのことも多い。それでも、作者の意図を汲み取るより、物語の面白さに引かれて読んでいます。

 三番目の「沈黙」は、空港ロビーで出発を待ちながら、作家の「僕」が、編集者の男性へ「人を殴ったことがありますか」の質問から、彼が高校時代に負った心の傷へと話は及ぶ。20年以上前に発表された作品ですが、昨年、尖閣問題について、村上氏の朝日新聞への寄稿の内容に重なるものを感じました。口当たりの良い受け入れやすい他人の意見に踊らされる恐ろしさ、が指摘されます。

 それから、最後の「めくらやなぎと、眠る女」は、都会での仕事を辞め、故郷に戻ってきた「僕」が、年の離れた従弟を連れ、大学病院の耳鼻科へ行く話。二人の会話に、「僕」の学生時代の回想が挟み込まれます。バス停で、いとこに「大丈夫?」と強く腕をつかまれた「僕」は、「大丈夫だよ」といとこの肩に手を置く。途中、意味不明のところ(インディアン映画の件)もありますが、これが一番好きなお話でした。「緑色の獣」と「氷男」は、全編意味不明。でも、お話としては面白い。こちらも機会があればお試しください♪


★次回は、映画「レ・ミゼラブル」です。
by cuckoo2006 | 2013-01-20 21:20 | 村上春樹 | Trackback | Comments(0)

「クリスマスの思い出」トルーマン・カポーティ[著]村上春樹[訳]

a0163466_17573655.jpg内容紹介
ささやかな、けれどかけがえのないクリスマス。画と文がともに語りかけるシリーズ最終巻はカラー頁を加え、より美しく、愛らしく


 


 

 ああ、いい本読んだなあと久しぶりに思いました。新聞の年末年始のお勧め本のコーナーで、「毎年クリスマスになると読みたくなる本」として紹介されていました。訳は村上春樹、すぐに図書館へ向かいます。

 カポーティの短編小説の中の「イノセント・ストーリー」と呼ばれる作品の代表作で、またあえてジャンルを限定しなくても、この短編は彼の散文のある種の頂点を記録している、と巻末で村上春樹は語ります。

 登場人物は、7才の少年バディ、彼の“おばあちゃんいとこ”の童女、そして、ラットテリアの雌犬クイーニー。二人と一匹は、同居する無理解な親戚達に辛く当たられても、気にもかけない。なぜなら彼らは、お互いを信じ合った無二の親友だから。そんな彼らにとってクリスマスの準備は、一年に一度の大仕事です。30個のフルーツケーキを焼き、世界中の(一度だけ会ったことがある)友達に送り、森の奥の秘密の場所から選りすぐりの樅の木を引きずって来るのです。

 知恵と体力を絞り、周到に準備されていく彼らのクリスマスイベントに胸が躍ります。子供の頃、こんな世界にいた記憶が蘇ってきます。そして、これが彼らがともに過ごした最後のクリスマスとなったのでした、、、、

 日曜日の朝、ぬくぬくしながら布団の中で読み終わりました。挿絵の山本容子さんの銅版画のクイーニーの仕草がウチの犬に似ていてとろけました。大人へのクリスマスプレゼントにぴったりの本です。

          ~・~・~・~・~・~・~・~・~

 2012年もあと一日となりました。健康で平穏に過ごせたことにただただ感謝。今年は、スカイツリーを拝みながら隅田公園でお花見をし、スカイツリービューで夜景を眺めながら忘年会。東武線の車窓から臨むスカイツリーに元気をもらったような一年でした。来春は、いよいよ新しい歌舞伎座の開幕、またお祭りムードに乗っかり心賑やかにいきたいものです。今年も「気ままな読書ノート」をお読みくださりありがとうございました。

 
  師走のホームの北風よけて啜るかき揚げ蕎麦の汁

    
それでは、皆さま暖かくして、どうそ良いお年を!


★次回は、「2012マイベスト5シネマ」の発表です♪
by cuckoo2006 | 2012-12-31 14:30 | 村上春樹 | Trackback | Comments(2)

「ロング・グッドバイ」レイモンド・チャンドラー[著]村上春樹[訳]


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私立探偵フィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には哀しくも奥深い真相が隠されていた……村上春樹の新訳で話題を呼んだ新時代の『長いお別れ』が文庫版で登場。(文庫本裏表紙より)

 
 モチロン、訳者の村上春樹に惹かれて読みました。村上氏が、これまでの人生で出逢った最も重要な三冊の本。それは、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」とドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、そしてこの「ロング・グッドバイ」だそうです。

 「グレート・ギャツビー」と「ロング・グッドバイ」を幸せなことに村上訳で読むことができました。あとの一冊「カラマーゾフの兄弟」を読む根性は、もう私には無さそう。でも、もしこの先、村上氏が「カラマーゾフの兄弟」を翻訳する根性を発揮したら、その時はまた考えることにしましょう。

 さて、フィリップ・マーロウですが、かの有名な「タフでなければ生きられない、優しくなければ生きる資格がない」って彼のセリフ(別の本の中でですが)だったのですねえ。約束とも言えぬような約束を守るため得体の知れない敵に挑み、徹底的に痛めつけられても怯まず一人戦い続ける。格好良さの原点のような男です。生きる美学に名言に酒の銘柄、ファッションまで、マーロウは、ずっーとハードボイルドのヒーロー達のお手本になってきたのでしょう。そう言えば「探偵はBARにいる」の大泉洋もギムレット飲んでましたっけ。

 舞台は、1950年代、アメリカ。億万長者を父に持つ妻殺害の疑いをかけられ自殺する夫、マーロウは友人である夫の犯行に疑問を抱く。やがてマーロウの前に現れる流行作家ととびきり美しい妻、この上流階級の二組の夫婦が縺れ合うように抱える深い闇。マーロウは彼等に翻弄されながらも大胆さと緻密さを持って真相に近づいていきます。人々の心に戦争の傷跡がまだ残り、独特の退廃的かつ洗練されたムードの中、酒と会話にじっくり浸りながら物語は進んで行きます。

 この「ロング・グッドバイ」、村上氏の小説に影響与えてるなあ、とあっちこっちで嬉しい発見がありました。村上作品には、主人公・「僕」の日常生活の描写が良く見られます。『僕は、顔を洗い髭をあたり、パンにバターを塗りキュウリとチーズを挟み、コーヒーを作り、流しを片付けた』(いい加減な記憶で書きました)という具合。味噌汁だったら、キャベツとじゃがいも(また記憶より)というふうに具の描写まであります。エッ、こんなことまで書くの、と思うのですが、主人公の丁寧な暮しぶりも私には魅力の一つ。で、マーロウにも同じような描写がありました。『私はキッチンに行って、カナディアン・ベーコンとスクランブル・エッグとトーストとコーヒーを作った』(P.23)というふう。マーロウも心を落ち着かせるために掃除したりシーツを取り換えたりします。綺麗好きなところも「僕」に重なるのです。

 そして、もう一つ似てるのは、会話のスタイル。村上氏と言えば、「いやはや」「なるほど」などという一言の受け答えが定番ですが、マーロウも「率直に言って」「あるいは」「一点のくもりなく」とか良く言います。もろろん当然、訳者の文章スタイルが反映されると思いますが、同じケースの「グレート・ギャツビー」では全く感じないことでした。この「ロング・グッドバイ」に村上氏が影響を受けたことを直に感じられたのは、村上ファンとしては堪らないことでした。

 この本の中の名セリフは、『さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ』(P.571)めちゃくちゃに殴られた顔での美女とのラブシーンの翌朝のセリフです♪

 村上さん、やっぱり、カラマーゾフの兄弟、待ってますよ!


★次回は、映画「探偵はBARにいる」です。

by cuckoo2006 | 2011-09-16 23:49 | 村上春樹 | Trackback | Comments(6)

「ノルウェイの森」 監督トラン・アン・ユン

ノルウェイの森」 a0163466_2136189.jpg
見どころ
87年に刊行された村上春樹の世界的ベストセラー小説を、20年以上の年月を経て実写映画化したラブストーリー。松山ケンイチ扮する大学生ワタナベが2人の女性のはざまで心を揺らすさまを、「青いパパイヤの香り」の名匠トラン・アン・ユンが、原作の持つ切ない世界観そのままに、みずみずしく映し出す。
キャスト
松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子、高良健吾、玉山鉄二、霧島れいか(Movie Walkerより)



 これは、原作者が観てもがっかりしないでしょう。村上春樹作品のイメージが、かなり正確に映像化されています。それに松山ケンイチ演ずる主人公ワタナベトオルの容貌、喋り方、雰囲気が村上春樹にとても良く似てます。原作の中のワタナベと著者自身がかなりの部分で重なるので、毎回役がのりうつると言われる“憑依役者”マツケンの存在が、この映画成功の決め手となりました。

 物語のはじまりは、1967年、ワタナベと彼の親友キズキ、キズキの幼なじみの直子の三人が高校時代を過ごす神戸から。キズキは卒業を前に自ら命を絶つ。東京で空虚な大学生活を始めるワタナベ。そんな時、彼は偶然、直子に再会する。しかし、直子の二十歳の誕生日を祝った日を境に彼女はワタナベの前から姿を消してしまう。夏休みの前、ワタナベはキャンパスでミドリと出会う・・・

 学生運動が激化した大学を舞台に、髪を横分けにしズボンにシャツインした物憂い表情のマツケンは60年代の終わりにすんなり溶け込んでいるし、直子役の菊池凛子もその時代の人に見えます。ミドリ役の水原希子も入江美紀(小澤征爾夫人)か加賀まりこを思わせるような昔の洒落た女の子の雰囲気がいい具合。三人の配役に違和感がありません。

 「ノルウェイの森」を読んだ一番の感想は、『あぁ、あん時、ああいう服着てこういうもの食べて、あんなこと考えていたっけなぁ』というものでした。この映画もそれと全く同じ。スパッと切り取られたその季節の空気感に浸り、そこに居た自分と対面する、感覚です。

 辟易としたシーンは原作通りだろうし、原作の印象的な場面は幾つも削られていました。中年にさしかかったワタナベがドイツへ向かう機内で、ビートルズの「ノルウェイの森」を聴き過去を回想する、という導入部まで省かれています。そんなこんな差し引いても、この映画は劇場で観ておいて良かったと思います。

 がっかりしたくないので、原作を読んだ映画は観ないことにしているのですが、この「ノルウェイの森」は、本とは違うもう一つ別の良さを持っています。時代を流れていたリアルな風の匂いを吸い込むことができました。映画化成功でしょう。


@TOHOシネマズ西新井
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by cuckoo2006 | 2010-12-21 21:50 | 村上春樹 | Trackback | Comments(0)

「1Q84」BOOK3 村上春樹[著]

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更に深く、森の奥へ。そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、孤独に染まることのない場所だった。(帯より)

 

 
 これほどまでに甘い甘いハッピーエンドの村上春樹を初めて読みました。ウヘエ~でした。
私は、90年代以降の村上作品のファンを自称しています。主人公が、光の方へ一歩踏み出す気配で物語が終わる、というのが90年代以降の村上作品の共通した印象です。それ以前80年代の作品は、登場人物の傷ついた魂が死の世界へ昇華することにより救済されていく、というのが私の持つイメージでした。

 「1Q84」BOOK3の結末は、あまりの完結した世界に安易さを感じるほど。返って物語の印象が薄まってしまいました。深夜、最後の第31章を読み終えた後、読後感の持って行き場の無さに、思わず第28章の「牛河」の章に戻って“口直し”をしてしまいました。

 それでもこのBOOK3、最終章を迎えるまでは、もう前のめりの斜め読みになるほど面白かったのです。BOOK1,2は、青豆と天吾の世界が交互に語られましたが、BOOK3では彼らに加えて「醜い存在」として描かれる中年男「牛河」の章が綴られます。月が1つしか見えない1984年にいる牛河の存在がBOOK3を読み易いものにしています。物語は、「ある目的のために」にシンプルに真っ直ぐ進んでいき、「解読本」が出回ったようなBOOK1,2の難解さは、ほとんどありません。

 私は、青豆と天吾よりも牛河が深く印象に残りました。『中央林間の建て売りの一軒家と、その小さな庭を元気にかけまわる小型犬の姿』がこの物語の中で、一番鮮やかな「絵」として心に残りそうです。「ふかえり」、「リトルピープル」、「さきがけ」、「空気さなぎ」そして「小さなもの」、いつかまた物語の中から散らばったピースが動き出しそうです。「牛河さん」も「ねじまき鳥クロニクル」からやって来たのでした。兎にも角にも、読んでいる間中、幸福感、高揚感を存分に味あわせてくれた「1Q84」、ありがとう!

by cuckoo2006 | 2010-05-03 23:21 | 村上春樹 | Trackback | Comments(0)

「1Q84」村上春樹〔著〕

1Q84」  

c0186554_1757502.jpgc0186554_1758936.jpgBook Description
1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。
そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。
そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。
私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。
Book 1
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。
Book 2
「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。


 何はさておき、村上春樹は、私には特別の作家です。「1Q84」は、勿論発売当日に購入。重い本をあちこち連れ歩くのも苦になりません。読み進むことが心のハリになるほど楽しい時間でした。しかし、まあ、サッパリワカラン話です。

 物語の舞台は、1984年、東京。スポーツクラブのインストラクターの女性「青豆」と小説家志望の予備校講師「天吾」が、交互に語り手となります。天吾が、17歳の少女「ふかえり」の書いた小説「空気さなぎ」を書き直したことを発端に、現実の1984年が、未知の世界1Q84年へと変わり始めていきます・・・

 いつもながら、文章が巧いこと自体を気づかせないほどの滑らかさです。青豆と天吾の現在と過去、彼らを取り巻く人々、そして二つの月・・・ミステリーの興味もいっぱいに、物語は謎めいた世界へ展開していきます。筋立てそのものは非常に面白く読みやすい。しかしながら、作者の意図したメッセージを読み解こうとすると、もうお手上げでした。一つだけ、はっきり受け取れたことは、「善悪の価値観の基準は、一つではない」、ということ。これは、カルトリーダーと青豆との対決の中で、提示されていきます。

 最後の1ページを読み終えて、これで終りの筈がない!絶対に続編がある!と確信したのですが、それも間違いだったようです。6月23日付け朝日新聞文化欄の『1Q84』を読み解く、で本の内容について書かれた部分で一番ピタリときたのが森達也氏の書評。その中で、『この国にはいない「ビッグ・ブラザー」(オーウェル著「1984年」で描かれた)に対し、「リトル・ピープル」は、民意や世相を表す。決意や思想は、物語という間接話法によってより強く読む側の意識に刻まれる。その意味ではラストにも納得した。続編はありえない。』と。

 目から鱗でした。もう一度、最も難解な下巻の後半を読み返してみると、「二人」は、このようなかたちで結ばれたのだ、と思えてきました。そして、天吾の「彼女を見つけ出そう」は、「明日からも生きていこう」という希望の言葉と同意に受け取れました。続編はない!に、影響されやすい私も全面的に賛成です。

 下に再掲載しました地下鉄サリン事件被害者の話をまとめたノンフィクション村上春樹著「アンダーグラウンド」の感想文もお読みくだされば光栄です。
by cuckoo2006 | 2009-07-31 11:38 | 村上春樹 | Trackback | Comments(1)

「アンダーグラウンド」 村上春樹〔著〕

d0074962_21125533.jpg『1995年3月20日の朝、東京の地下鉄でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか。62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。』(文庫本裏表紙より)



こういう本があったのか、という驚きがありました。
著者・村上春樹による地下鉄サリン事件被害者62人へのインタビューが収められています。インタビューは、事件後9ヶ月から始まり、約1年間かけて行なわれました。その朝、たまたま事件現場に居合わせ、サリンに何らかの作用を受けた多数の人達の証言により、混乱を極めた現場の状況が浮かび上がります。

最初の証言者は、「ひと目見たとき、冷静にことを処理している人が一人もいないことに気が付きました」という26歳OL。千代田線の霞ヶ関駅を降り、周囲の人々の異変に驚いた彼女は、救急車が一向に来ないことに苛立ち、駆けつけたマスコミの車に、倒れている人を病院へ運ぶように掛け合う。次の証言者は、重症者達を病院に運んだそのマスコミの車の運転手。そして、その次は、重篤の同僚に付き添ってその車に同乗した若い駅員の証言、という具合に、その時、実際にどういう事が起こったのか、騒然とした現場の、その輪郭が少しずつはっきりしたものになっていく。それぞれの証言の中にお互いが記憶され、また、この証言者達も次々に体調の異変に襲われていく様子が綴られます。

そして、証言者の仕事、家族、生い立ち、風貌も著者のフィルターを通して紹介されます。事件の当日、どういう状況で、その電車に乗り合わせることになったのか。月曜の朝、会議があったのでいつもより30分早く家を出たとか、渋滞に巻き込まれて、何本か遅い電車に乗ることになったなど、それぞれの事情が語られる。サリン事件の被害者という一括りではなく、一人一人の顔立ちの細部が浮かび上がります。重い後遺症の残る被害者、亡くなられた方の家族へのインタビューも含まれ、その方々の事故に会う前の姿がイメージされました。

また、同じ体験をしても、人の感じ方、考え方というものは、本当に様々だなあと感じます。比較的年齢が上の方達が多いこともあり、皆それぞれに生きるスタイルがきちんと確立されている。普通の人々が皆、自分の人生を、実に真っ当に生きている。これが、この分厚いインタビュー集に、私が一番強く感じたことかも知れません。

最後に、「目じるしのない悪夢」(私たちはどこへ向おうとしているのだろう?)という著者による8章に渡る文が加えられています。その中で(いささか大雑把過ぎる要約ですが)、『オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原に「自我」という精神的資産を預け、麻原の差し出す「物語」(自分の人生を生きるアイデンティティーのようなものと受け取った)を得た。私達は、麻原のその荒唐無稽でジャンクな「あちら側」の物語をあざ笑った。しかし、それに対して、「こちら側」の私たちも、誰か(何か)に対して「自我」の一定部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取っているのではないだろうか。私達の「物語」は、本当に私達の「物語」なのか。私達の「夢」は、いつか「悪夢」へと転換していくかもしれない誰か別の人間の「夢」なのではないか。私達が、オウム真理教と地下鉄サリン事件に対して不思議な「後味の悪さ」を捨てきれないでいるのは、実はそのような無意識な疑問が解消されていないからではないだろうか。』10年程前に書かれた文章ですが、自分の身に引き合わせても考えさせられる件でした。

1995年3月20日は、朝から気持ちよく晴れ上がり、その日は長男の中学の卒業式でした。式の後、地下鉄で大きな事故があったらしい、と会場がざわついたことなども思い出しました。

(2008年1月27日掲載記事)
by cuckoo2006 | 2009-07-31 11:26 | 村上春樹 | Trackback | Comments(0)

「アンダーグラウンド」 村上春樹〔著〕

d0074962_21125533.jpg『1995年3月20日の朝、東京の地下鉄でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか。62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。』(文庫本裏表紙より)



こういう本があったのか、という驚きがありました。
著者・村上春樹による地下鉄サリン事件被害者62人へのインタビューが収められています。インタビューは、事件後9ヶ月から始まり、約1年間かけて行なわれました。その朝、たまたま事件現場に居合わせ、サリンに何らかの作用を受けた多数の人達の証言により、混乱を極めた現場の状況が浮かび上がります。

最初の証言者は、「ひと目見たとき、冷静にことを処理している人が一人もいないことに気が付きました」という26歳OL。千代田線の霞ヶ関駅を降り、周囲の人々の異変に驚いた彼女は、救急車が一向に来ないことに苛立ち、駆けつけたマスコミの車に、倒れている人を病院へ運ぶように掛け合う。次の証言者は、重症者達を病院に運んだそのマスコミの車の運転手。そして、その次は、重篤の同僚に付き添ってその車に同乗した若い駅員の証言、という具合に、その時、実際にどういう事が起こったのか、騒然とした現場の、その輪郭が少しずつはっきりしたものになっていく。それぞれの証言の中にお互いが記憶され、また、この証言者達も次々に体調の異変に襲われていく様子が綴られます。

そして、証言者の仕事、家族、生い立ち、風貌も著者のフィルターを通して紹介されます。事件の当日、どういう状況で、その電車に乗り合わせることになったのか。月曜の朝、会議があったのでいつもより30分早く家を出たとか、渋滞に巻き込まれて、何本か遅い電車に乗ることになったなど、それぞれの事情が語られる。サリン事件の被害者という一括りではなく、一人一人の顔立ちの細部が浮かび上がります。重い後遺症の残る被害者、亡くなられた方の家族へのインタビューも含まれ、その方々の事故に会う前の姿がイメージされました。

また、同じ体験をしても、人の感じ方、考え方というものは、本当に様々だなあと感じます。比較的年齢が上の方達が多いこともあり、皆それぞれに生きるスタイルがきちんと確立されている。普通の人々が皆、自分の人生を、実に真っ当に生きている。これが、この分厚いインタビュー集に、私が一番強く感じたことかも知れません。

最後に、「目じるしのない悪夢」(私たちはどこへ向おうとしているのだろう?)という著者による8章に渡る文が加えられています。その中で(いささか大雑把過ぎる要約ですが)、オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原に「自我」という精神的資産を預け、麻原の差し出す「物語」(自分の人生を生きるアイデンティティーのようなものと受け取った)を得た。私達は、麻原のその荒唐無稽でジャンクな「あちら側」の物語をあざ笑った。しかし、それに対して、「こちら側」の私たちも、誰か(何か)に対して「自我」の一定部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取っているのではないだろうか。私達の「物語」は、本当に私達の「物語」なのか。私達の「夢」は、いつか「悪夢」へと転換していくかもしれない誰か別の人間の「夢」なのではないか。私達が、オウム真理教と地下鉄サリン事件に対して不思議な「後味の悪さ」を捨てきれないでいるのは、実はそのような無意識な疑問が解消されていないからではないだろうか。10年程前に書かれた文章ですが、自分の身に引き合わせても考えさせられる件でした。

1995年3月20日は、朝から気持ちよく晴れ上がり、その日は長男の中学の卒業式でした。式の後、地下鉄で大きな事故があったらしい、と会場がざわついたことなども思い出しました。
by cuckoo2006 | 2008-01-27 21:14 | 村上春樹 | Trackback | Comments(6)